中学受験 父たちの戦い


昭和62年2月4日。

もう32年も前の話になるが、今でも明確に覚えている。

当時通っていた小学校。

授業中、先生が

「おい、お父さんが来てるぞ」

と言う。

外を見ると、入口に父が立っていて、私を手招きした。

傍若無人なわりに意外とシャイな性格で、子供の学校のイベントにはほとんど顔を出すこともない人だったが、珍しく1人で学校を訪れ、こう言う。

「昨日の学校受かってたぞ」

素っ気なくそう告げると、踵を返してさっさと帰っていった。



前日の2月3日。

私は中学受験で、ある私立中学を受験していて、その合格を知らせに来てくれたのである。

今は随分と事情が異なるようだが、当時の中学受験は、

「1日校(毎年2/1に試験を実施)」
「2日校(毎年2/2に試験を実施)」
「3日校(毎年2/3に試験を実施)」

と試験日程が分かれていて、多くの人が第一志望とする学校は2/1か2/2に、そして、やや人気が落ちる、いわゆる「滑り止め」と言われる学校が2/3に選抜試験を行っていた。

そして私は1日校と2日校に落ち、「滑り止め」の3日校の結果を待つ身だったのだ。

もし3つ目も落ちれば全敗ということになる。

それまでの3年間、塾に通い、それなりの頑張ってきた身としては「3校全滅」は努力を全否定されることを意味する。

たとえ「滑り止め」とは言え、それに合格出来るか否かは、天国と地獄ほどの差があるのである。

そんなわけで父の知らせは、その前2校に玉砕し、地獄にいた私を救い上げてくれる「蜘蛛の糸」のようなものだった。

喜びよりは、塾の先生や親に対して多少は面目が立ったことによる安堵の気持ちが強かったように覚えている。




そして時が過ぎ、ここ数年

「子供が中学受験で」

という話を頻繁に耳にする。

今度はお客様や友人、知人が「親」として中学受験と向き合うこととなるのだが、「男親」という立場でお父さんの話を聞くと色々と苦労があるようだ。

各人によって感想は異なるが、共通項を挙げると、

・勉強が難しすぎて教えられない

・特に算数は「理不尽」なくらい難解

・塾の費用も「理不尽」なくらい高いが、母子ともに当たり前のように使う

・出来ることは、塾の送り迎えや、子供の愚痴を聞くくらい

などなど。

そして、最大の悩みは・・・

妻のイライラが半端じゃない

これは、ほぼ全員が挙げる。

・頑張っている子供より、妻の方に気を遣う。

・妻があまりにカリカリしていて、「あいつの成績どうだ?」と気軽には聞けない。

・模試の結果に一喜一憂する妻に同調し、大げさに喜んだり、悲しんだりと「演技」している。

こんな話からも家の中でのカラムーチョな雰囲気が伝わってくる。

中学受験は母子の戦争

ある教育評論家がテレビでそんなことを言っていたが、要は父親が出来ることは限られていて、最前線の我が子、それを叱咤激励する指揮官の母、後方支援(運搬、戦費負担)の父、そんな構図なのだろう。

そんな引けた場所から見ているせいか。

我が子の中学受験についてほとんどの父親は、

結果が良いに越したことはないが、努力と挑戦の過程から何かを学んでくれれば良い

という鷹揚なスタンスの方が多い。

長い実社会生活の中で「勝負は時の運」でもあり、必ずしも努力と結果がリンクしないことを痛いほど知っている。

また、進学先一つで人生が決まるとも思っていないので、

まあ、頑張んなよ

という感じなのだろう。



対して、「前線」の母親は違う。

指揮官がそんな思考では兵(子)に伝播する。

もちろん父親同様、時に努力が結果に裏切られることは重々承知しているものの

必ず勝てる。自分を信じろ!!

常にそういう姿勢でいないといけない。

強気を貫くのもこれはこれで辛いし、実際に運なく負けた時には、前のめりになっている分だけ、母親の方がショックがでかい。

当然、一番傷ついているのは実際に戦った子供のはずなのだが、中にはお母さんの方が寝込んでしまった。そんな話も聞いたことがある。

父親としてはこれが怖い。

第一志望でなくても、どこかに受かってくれれば、努力が「報われた」となるが、全滅となると我が子だけでなく、妻までディープブルーな状態となり、家の中がズーンと暗くなる。

それを収拾するのは誰なのか?えっ!?俺?やっぱり俺かぁ・・・という感じだろう。

敗戦国の首相ほど辛いものはない。

だからこそ「合格」の知らせは格別。

それが第一志望であればなおのこと、たとえ滑り止めの「僅差の勝利」であっても、勝ちは勝ち。

とは言え、父親としては自分が戦ったわけでも、前線に出たわけでもない。

だからこそ「勝った」という感覚は乏しく、それよりも「戦争が終わった」ことに安堵するのだろう。

「あの人が学校にまで行くなんて、相当嬉しかったのよ」

32年前の出来事を思い浮かべ、今でも母が懐かしそうに話す。

当時、私の母もご多分に漏れず相当カリカリし、時にはビンタを織り交ぜて私という兵を手厳しく指導した。

父は我関せずだったが、何となく家庭内の重苦しいものは感じていたはずで、合格の知らせは私だけでなく父も解放したのかもしれない。

「相当嬉しかった」のは、私の合格だったのか、解放だったのか?

父は3年前に他界したので、今となっては知る由もない。

友人の家は、ここ数年で中学受験シーズンを迎えているが、我が家の子供はまだ小1。

中学受験をするとしても5年後だが、その時になれば、私も父の気持ちが分かるかもしれない。

本音は意外と後者のような気もしている。

本日のコラムでした。



 

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1月 14th, 2020 by