
「全く何とも思わない」
先日、お世話になっている先輩経営者が、突然長野からご家族で上京すると連絡があった。
一体何事かと思えば、
「皇居の桜を娘たちに見せたい。」
とのこと。
そのために日帰りで新幹線でやってくるのだから、何とも優雅である。
都合がつくなら一緒にどうか?と誘われて、こちらも子供を連れて同伴させて頂いた。
「数年ぶり」に一般公開されているという皇居。
東京駅正面の坂下門から竹橋の平川門、もしくは北の丸の乾門に抜ける。

桜が綺麗なことはもちろんだが、宮殿や宮内庁庁舎など、普段は見ることの出来ない観光名所を拝むことが出来て、お恥ずかしながら東京に42年住んでいるのに、子供の頃に一度か二度見ただけの「皇居の中」は、改めて貴重な体験となった。
こんな機会でもなければ、一生行かなかったかもしれない。
が、これは大人の話。
その方のお嬢さんも、うちの娘も共に5歳だが、2人して全く興味なさそうで、1キロ程度歩いたところで、
疲れた!!
どこまで行くのか?
もう飽きた
と、女子二人は口やかましい。

そりゃ、天皇陛下の恭(うやうや)しさすら理解しない5歳児からすれば、皇居と言えど
「ただの広場」
であり、誠に畏れ多い話ながら、ブランコ一つもない点からすれば公園にも劣るだろう。
もうすぐ着く、着いたらアイス、などとごまかし、時には20kg近い我が子を肩車しながら歩を進める。
なお、少々余談になるが、皇居の中はもちろん、その周りにも売店やコンビニはおろか、自動販売機すらほとんどない。そのことに今更気づいた。
我が国の象徴でもある皇居の周りに自販機が並ぶ姿は美しくない。だから、それはそれで良いのだが、いざ子供がクズると意外と困る。
しかも20度を超える絶好の行楽日和であったため、手持ちの麦茶などはあっという間に飲み干され、父が近隣のコンビニまでお子様たちが所望する「ジュース、アイス」を使い走りすることになる。
二家族合同の「桜の行軍」は、汗をかきかき、中年父たちの腰と膝を痛めながら何とか目的地に着き、念願の満開の桜にたどり着く。

「うわー、綺麗だね。桜どう?」
と尋ねる知人家族のお母様に、娘さんが言ったことが冒頭のセリフである。
「全く何とも思わない(きわめて一本調子の声で)」
高速ジャブをかいくぐって前に出たところ、下から強烈アッパーをお見舞いされたかのようなパンチで、その声は数歩先を歩いていたお父様の耳にも確実に届いていたはずだが、こちらを振り返ることはなかった。
きっと泣いておられたのだろう。

とは言え、うちの娘も桜には何の興味を示さず、先ほど食べたアイスが美味しかったこと。チョコがバニラかで迷ったが、チョコを選択したことは間違いではなかったこと。しかし、次回また同じアイスを食べる機会があれば、今度はバニラを選ぶであろうことを力説していた。
つまりは、
桜=アイス
という理解で、まあ、子供とはそんなものだ。桜より桜餅、桜餅よりアイスなのである。

このような、「良かれと思ったこと」が「子供の心に届かない」という構図は頻繁に発生する。
特に男親に多い。
我が家でも、以前ハワイ島に行った時、
「ハワイ島と言えば・・・流れる溶岩を見せたい!!」

と思い、溶岩流を上空から見ることが出来るヘリコプターツアーに申し込んだ。
その料金は「目ん玉が飛び出るほど」高かったが、「娘のため」と奮発したところ、ヘリコプターのあまりの轟音に号泣し、娘は終始妻にしがみついて一切下を見ることなく終了・・・・
父の想い(と高額の料金)は見事に空ぶったことになる。

それに対し、普段から子供と共に多くの時間を過ごす母親は「子供のニーズ」を良く把握している。
また、母親は「子供のため」だけにフォーカスして「喜ぶこと」を定義できるが、男親は多少なりとも「自分のニーズ」が入る。つまり、自分が「行きたい」、「見たい」という要素が企画に入り込む。
「自分が楽しいから、子供も楽しいはず」
という誤った思考だ。
ハワイ島のヘリコプターにしても、本音は「自分が乗ってみたい」ということで、その言い訳に利用され、アンビリバボーな恐怖体験をさせられた娘こそ良い面の皮だろう。

では父たちの行動は子供に苦痛を強いているだけか?と言えば、そうでもない。
今回、ご一緒したご家族とは家族ぐるみでお付き合いしていて、年に1,2度会う子供たちも仲が良い。
久しぶりに友人に会えた子供たちは楽しそうだったし、皇居の桜にしたって「何とも思わない」かもしれないが、「見た」という経験は「人生の基準」になる。
「子供たちに日本一の桜を見せたい」
お父様はそう言っておられて、皇居の桜が日本一なのかどうかは私には分からないが、
「ああ、これが日本で一番の桜なのか。」
と思えば、他の桜を見た時の基準点の一つになる。
前述の通り、母親は子供の要望を正確に把握しているが、そればかりだと「自分が好きなことばかり」でその近辺にしか枠は広がらない。
「少々ズレて」いても、強引な父親の企画に巻き込まれることで、「飛び地的」な体験をして、
人間の幅が広がる
のである。きっとそうだ。いや、間違いない。
そして、男親の「自分が行きたいだけ」&「完全に思いつきイベント」のシワ寄せは母親に向かう。結局、子供の面倒を見るのは母親だからだ。
我が家でも、妻が私の企画に100%賛同することは稀で、いつも「渋々」ついてくるという印象である。

思えば昨年亡くなった私の父も、いきなり突拍子もないことを言い出しては、家族を引っ張りまわして、最後には自分が面倒臭くなり、突然「帰るぞ!!」と言い出す理不尽極まりない人だったが、当時連れて行ってもらった場所は長じても意外と覚えている。
結局は皆で出かければそれなりに楽しいし、多少辛くても時を経れば良い思い出になるのである。
先日のお嬢さんも、大人になれば
「お濠の桜を見ると亡くなった父を思い出す。」
などと語る日が来るかもしれない。(アラフィフのお父様は全然お元気で、あと50年は生きそうだが)
「父の想い」はいつも家族には届かない。
だがそれで良い。
きっと「何か」は残るのだから。
そう信じたい本日のコラムでした。
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