亡き父から聞いた「意外とイメージと違う」戦時中の教育の話


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本日は終戦記念日。

仕事も暇なので、亡き父から昔聞いた戦争の話を紐解いてみたいと思います。

父は昭和5年生まれ。

昭和20年の終戦の時は15歳ですから、あと数年生まれるのが早ければ

「兵隊にとられて死んでいた」

そうです。

東京大空襲で焼き出されてリヤカーを引いて群馬まで逃げた

石炭工場で出る「屑石炭」を集めて闇市場で売っていた

そのお金を母親に届けていた

などと聞いたことがありますが、それはそれは大変な時代。

父の周りでも戦争で死んだ方は多かったようですが、常に言っていたのは

・いつも腹が減っていたこと

・憲兵がこわかったこと

の2つ。



戦争末期の食糧事情の悪さは想像を絶し、食べる物はサツマイモとすいとんだけ。

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しかも量も少ない。

なお、その頃に「サツマイモ」に対してつらい記憶しかないのか、長じてからは「大嫌い」になり、そのため我が家ではほとんど食卓に上がることがありませんでした。

それくらいトラウマがある、ということでしょう。

なお、終戦の時に15歳と聞くと『天皇万歳!!』の軍国教育をイメージしますが、父の話では

「尋常小学校ではそこまでではなかった」

と言っていました。

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と言うのも、第二次世界大戦が始まるまでは軍国教育もそこまで苛烈ではなく、そのような教育が本格化したのは「国民学校」になってからだそうです。



補足すると、戦争が始まる1941年までが尋常小学校(6歳から12歳まで、今の小学校と同じ)

それが開戦後に「国民学校」に変更になり、よく映画などで見る

「竹やりで空を突くような教育」

は主に国民学校の末期に行われていたそうです。

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1941年、父は11歳。

それまで通っていた尋常小学校が、最後の一年だけ国民学校に変わり、しかも戦争初期だったので、よもや日本に空襲が来ることなどは誰も想像しておらず、

「色々訓練はあったが、俺はあまり真面目にやってなかった」

とのこと。それでも大目に見てもらえるくらいの余裕があったのでしょう。

今で言えば小学校6年生。

既に人格形成もされているので、そっぽを向いている子も少なくなかったのかもしれません。



この時代。

そんな不良少年の父にとって最も怖かったのは「憲兵」

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ある時、どこかの工場からパーツを盗んだのがバレたそうで、

「憲兵が持っている警棒で気を失うまで殴られた。人生で死にかけたのはあの時だけ」

と言っていました。

どう考えても父が悪いのですが、当時は盗みでもしなければ食っていけない時代。

また捕まっても刑務所に入れるような罪でもないので、

「憲兵にボコボコにされて路上に放り出されて終わり」

だそうです。

通常の警察官より憲兵の方が強い権限を持っていて、今では考えられませんが問答無用で拷問を受ける、というのが常識。

そのため、父の戦争の記憶は

「アメリカより爆弾より憲兵が怖い」

改めて凄い時代だったのですね。

さて、本日は戦時中の庶民のお話。

小説や映画で見るのと随分印象が違いますが、実際に経験した父の話なので、これはこれで真実なのでしょう。

この時代と比べても仕方ないですが、今は食べ物に困ることも、些細なことで警棒で殴られることもありません。

今日一日くらいは、先人たちの犠牲を悼み、平和に感謝したいと思います。

本日のコラムでした。



 

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8月 15th, 2017 by