神は細部に宿る 私の凡ミス学


大恩人がいる。

前職の外資系時代の先輩で、

「この人がいなかったら、今の自分はない」

そう断言できるほどの方だ。

社会人になって、ITベンチャーに就職したが、そこは大学の延長のようなノリの会社で、良くも悪くも個性を尊重してくれる組織だった。

今思えば社会人として何一つしっかりとしていなかった。

28歳で外資系生保に移ったが、逆にそこは上下関係や礼儀、礼節に厳しい「体育会系」のような会社で、社会人としての基礎が出来ていなかった私は苦労することになる。

そこで出会ったその先輩は、それこそ箸の上げ下げまで指導をしてくれるような方で、とにかくよく怒られたし、礼儀から営業の基礎、応用まで本当に「全て」を教えてくれた。

よくあそこまで熱血指導してくれたものだと、今更ながら感謝している。

その方が繰り返し言っていたことが、

神は細部に宿る

という言葉。

どんな仕事も細かい作業の積み重ねであり、その一つ一つに手を抜かないことで、全体が素晴らしいものになる。

つまり、細部にこそ「神」がいるのだ。

そういうことらしい。

この教えを未だに大事にしているし、たまにポカをやってしまった時などには、この言葉を反芻している。

突然、話は変わる。

娘の中学受験がいよいよ佳境に入り、第一志望をXという大学付属校に設定したようだ。

Xの試験は「基本的な問題」が多く、問題自体の難易度はさほど高くはない。

だが、大学付属でもあることから人気は高く、そうなると必然的に合格平均点も高くなる。

つまり、「いかに簡単な問題をしっかりとるか?」という点が重視されるので、1つ、2つの凡ミスが命取りとなるわけだ。

おそらくは学校側も、ある程度の基礎力があり、それを「着実にこなせる子」を求めているのだと思う。

しかし我が娘はと言えば、過去問をやればやるほど凡ミスが目立ち、基本的な問題を取りこぼすことが多い。

そのことを巡って、妻と娘が口論することが、最近の我が家の日常の風景となっているのだが、私がそれに割って入ることはない。

実はこの父も元来、凡ミスが多いタイプで、だからこそ娘の気持ちは痛いほど分かるからだ。

自己分析するにポイントは2つある。

1 ちゃんとやれば「出来る」と思っている

2 多分、大丈夫、だと思い込んでいる

要は過信と油断だ。

前述の恩人から熱血指導を受けていた時もこの点については再三注意を受けたのだが、なかなか治らない。

何度もチェックしたはずの書類なのに、間違った記載があったり、数字が違っていたり。

「『必ずミスを見つけてやる!!』という意地悪な監査官、そういう別人格を自分の中に作り、資料や書類をチェックしろ」

先輩からはそう言われ、その通りにやっているはずなのにミスをおかす。

だがある時からこの手のミスが劇的に減ることに。

独立してからだ。

結局のところ前職では書類のミスなどがあっても上司が何とかしてくれていた。

プレゼンでも先輩がフォローしてくれて、事なきをえていた。

それが自分で会社を始めると誰もケツを拭いてくれず、どんなミスでも自分でカバーしなくてはいけなくなる。

アホみたいなミスをお客様に告白し、評価を下げるのも自分。

修正の書類を取りにいくのも自分。

結局、全てが自らに帰ってくるので、

「始めからミスをしない方が良い」

と今更ながら悔い改めた。

別人格の意地悪チェックも、結局は昔は真剣にやっていなかったのだと思う。

独立後は「出来の悪い部下が作った資料」だと思い込むようにして、自身の作成したものをチェックするようにしている。

神が宿ったかどうは分からないが、確かにミスは減った。

と、こんな話を娘にしたのだが、

「ふーん」

と木で鼻を括ったような反応。

血は水よりも濃い。流石、親子だ。

結局、こいつも私と同じで「痛み目」を見なくては分からないのだろう・・・・

試験本番だけ「神が宿る」ことを祈るしかない。

本日のコラムでした。

 

 

 

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11月 17th, 2024 by