謝辞2024 愛しさと切なさと糸井重里


今年を象徴する出来事は「介護終了」である。

3月に母が亡くなったことで終焉した。

母は4年前にALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断。

宇宙物理学のホーキング博士が罹患した病として有名なALSは、全身の筋肉が徐々に動かなくなる病気で、最後は眼球や指の一部だけしか動かなくなる。

かと言って頭は全く正常であるため、

「自分の精神が自分の身体に閉じ込められる」

と表されることもある恐ろしい病気だ。

母の場合、会話の呂律が怪しくなってきたことから発覚した。

ALSの進行は患者によってまちまちではあるものの、大別すると「口からくるタイプ」と「手足からくるタイプ」があるそうで、母は前者。

まず話が出来なくなった。

無理に喋っても、まるで能か狂言の口上のようで、何を言っているのかさっぱり分からない。

浅草生まれ浅草育ちの母は口も達者で、起きてる間はずっと喋っているような人だったが、そんな人が言葉を奪われた。

相当辛かったはずだが、しかし、当の本人は

「一生分喋ったから神様がもう黙れって言ってるんじゃない?」

などと飄々としている。

我が母ながらなかなか肝の据わった人だと感心したものだ。

半面、ALSの代名詞でもある「体が動かなくなる」という点においては幸い進行が遅く、発症してからも2年くらいは自転車に乗ってあちこちに出かけていく。

活発的なALS患者もいたものだが、ALSの方も仕事をサボっていたわけではなく、しっかりきっちりと母の身体を壊し続け、3年目には嚥下機能(物を飲み込む機能)を破壊。

美味しいものを食べるのも、人に食べさせるのも好きな母から「食べる」ことを奪っていった。

そこからは早い。

胃ろうに切替え、液体状の栄養剤を取ってはいたが、やはり人間の身体というのは食べることで維持されているのだろう。

急激に足の自由が奪われ、電動車いすに。

そこから数か月後には手にも力が入らなくなり、看護師、介護ヘルパーに支えられながら何とか続けてきた自宅での1人暮らしを諦め、施設に移っていった。

そして施設に入居してからわずか3か月後。

ノロウィルスに施設内感染したことや、新型コロナなどにかかったことから急激に肺の機能が低下していった。

刻一刻と衰えていく体。

昨日できたことが今日は出来ない。

ちょっと顔が痒くても自分で掻くことも出来ず、痒いということを伝えるにも筆談に頼り、それですら日々字が乱れていく。

「書く」ことすら出来なくなれば、どうやって自分の意思を伝えれば良いのか?

その恐怖は本人にしか分からない。

ああ、そう言えばこんなこともあった。

死の1か月前。もうかなり弱っていたが、それでもメモ帳に「最後の楽しみがある」と記す。

「何?」そう聞くと「モルヒネは楽しいかね?」と。

母からは「その時が来たら苦しいのは嫌だからモルヒネをガンガン使ってくれ」と頼まれていたのだ。

「覚せい剤の〇倍効くらしいぞ。期待して待っていろ」

と、返しておいた。

既に顔の筋肉の動きも乏しく、表情から喜怒哀楽を窺うことも難しくなっていたが、それでも「笑った」ような気がした。

そして「その時」が来る。

医師に「モリモリでやってくれ」と依頼し、怪訝そうな顔をする医師のケツを叩き、可能な限りの最大限をやってもらう。もちろんこれは「親孝行」だ。

数時間後、目を覚ましたので「どうだ?モルヒネは?楽しかったか?」そう聞くと「良く分からないけど苦しくはない」と伝えてきて、あの状態で苦痛がないというのは相当に効いていたのだろう。

そんなこんなで3週間ほどたったある日。

もういよいよ肺がダメになり、家族が見守る中、動かない体から解き放たれ、自由の世界に旅立っていった。

74歳。

ちょっと早いし、悲しいが、これで良かったと思う。

ナイスファイトだ。もうこれ以上苦しむ必要はない。

と、言うことで私の介護も終わりを迎える。

どこの家にでもある、よくあるストーリーだ。

 

そんなわけで2024年は、3月というわりと早い段階でそれまでの生活の4,5割を占めていた「介護」が終了し、しばらくは燃え尽き症候群のようになっていた。

しかし、人生というものは不思議なもので、頭の中の容量が空くと、そこにはしっかりと新しいものが入ってくるように出来ている。

年の後半には色々な「お誘い」があり、新しい人に会ったり、新しいビジネスチャンスがあったり。

それらのメンバーとカトマンズ、インドを旅したのは先週お伝えした通りだ。

カトマンズ不動産見聞記

これも「介護中」だったら、きっと行くことはなかっただろう。

出会いと別れ。

我ながら陳腐な言葉しか浮かばないが、人生は結局これだ。

この世に生まれて49年。

人生で最も付き合いが古く、友でもあり、師でもあった母はもういない。

しかし、妻や子供たちや友人やお客様や、私が大好きな人たちとのつながりはこれからも続いていく。

そんな当たり前のことが身に沁みた2024年だった。

身が軽くなった分、2025年も仕事にプライベートに色々と挑戦していきたいと思う。

今年最後のコラムでした。

 

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12月 29th, 2024 by