傷痍軍人、私の戦争の記憶


昭和50年代。浅草。

まだ子供だった私にはとても緊張する場所があった。

一つは浅草駅の地下、銀座線乗り場の改札を出た踊り場のようなところで、もう一つは浅草寺の裏通り。

その2か所は先の大戦で手や足を失った傷痍軍人の方々の「公演場所」であり、元軍人さんたちがアコーディオンピアノやギターを弾きながら寄付を募っていることが多かった。

大変失礼であることは重々承知の上で言うが、手足の欠損というのは子供ごころに非常に衝撃的であり、かつ軍服や白い浴衣のようなものを纏った姿もインパクトがあった。

奏でるメロディはとても物悲しく、かと思えば時には軍艦マーチ(パチンコ屋で流れている曲)のような勇ましいものを弾いていたように思う。

昭和50年、戦争が終わってから30年経って生まれた私にとって、それは異質であり、より遠慮なく言えば幽霊を見ているような恐怖だった。

出来れば会いたくないと言うか、出会った時には緊張してなるべく目を合わさずに静かに前を通り過ぎる。

しかし、大正15年生まれで、戦前、戦中世代だった母方の祖母は必ずその都度、彼らの前に置いてある箱に小銭を入れ「ご苦労様です」と声をかけていた。

「お国のために戦った兵隊さんだよ。体も不自由になってしまって、かわいそうじゃないか。」

祖母はそう言っていた。

今ほどバリアフリーや、障がい者への配慮もない時代。

手や足がない状態で就ける仕事は限られていただろうし、道端で楽器を弾いて日銭を稼ぐしかなかったのかもしれない。

対して、父は傷痍軍人に厳しかった。

昭和6年生まれの父の言葉をそのまま借りれば

「国から恩給もあるのに大げさな格好して同情で小銭稼いで、みっともない」

と容赦ない。

終戦当時14歳。

12歳で尋常小学校を出て、既に東京のすし屋で丁稚奉公していた父にとって、戦争は「民を苦しめるもの」でしかなく、そのためそれらを象徴する軍人や、憲兵に終生強い憎しみをもっていたようだった。

特に憲兵については、酔った時などに時折話をしていて、

「威張り散らして、ちょっとでも気に障ることがあれば理由もなく警棒で殴られる。とんでもない奴らだ」

などと言っていた。

なお、前述の祖母は母方で、母は昭和25年生まれ。つまり父と母は19歳差の「年の差婚」であり、そのため父と母方の祖母が6歳差だった。

わりと裕福な家に生まれ、自身でも「軍国少女だった」と言っていた祖母。

6歳の時に満州事変(1931年)、翌年、満州国建国、12歳の時に日中戦争(1937年)と日本軍に勢いがあった時に少女期を過ごした。

一方父は満州事変の年に貧しい家に生まれ、どんどん戦況が厳しくなる中で少年時代を送る。

生家の貧富の差もあるのだろうが、生まれた時期がたった6年しか違わないのに、戦争の高揚感を体感した祖母と、それがない父。

2人の「戦争観」は全く違っていた。

傷痍軍人という戦争の悲劇を象徴する方々への態度を見ても、そのことが垣間見える。

かと言って、祖母と父がそのことで議論するかと言えば、そんなことは一度もなかった。

おそらくは、現代の政治、宗教、野球などと同様に、戦争を知る人たちの間では「そのことについてはお互い触れない」というある種のマナーがあったように思う。

誰にとってもあまりに犠牲が大きかった経験であるが故、考え方も千差万別。

正解があるわけでもなく、それに触れたところで今更・・・

ということなのかもしれない。

なお、調べてみると確かに傷痍軍人への恩給年金は出ていて、通常の年金よりは手厚いが、それでも生活するのに十分なほどではない。

また、軍隊での勤務年数や、当時の階級なども額に反映されるため、戦争末期に徴兵され一兵士として傷を負った場合、その額は十分とは言えず、そのため収入を得るために路上に出ていたと想定される。

この点において、父は誤っている。

 

戦争はこういう人たちをうむのか・・・・

40年近く前の「戦争の記憶」

当時の景色、悲しげなメロディーは今でもとして私の頭の中にありありと残っている。

今となっては貴重な体験をさせて頂いたと心から感謝している。

本日のコラムでした。

 

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8月 17th, 2025 by