喋れない母と「喋れる」子供の超能力


うちの母はある病気の影響で「喋る」ことが出来ず、コミュニケーションは基本、筆談である。

こう言うと「大変ですね・・・」などと心配されるが、当の本人はどこ吹く風。

日々、買い物や旅行、趣味の歌舞伎観覧に出かけており、「喋れない」ということ以外は、他の老人と違いはない。

だが、元来、息子である私ですら、辟易とするくらいおしゃべりな人でもある。

特に悪口が多い。

それを聞いていた神様が、

「はい!一生分喋ったから、もう沈黙ぅ~」

と判断したのかもしれず、だとすれば、頭を垂れてその御心に従うしかない。

だが、もしそうであれば神様というのも随分と心の狭い奴だ。

と、母に代わり、息子の私がすかしっ屁のような悪口を言っておく。



で、筆談。

やはり便利とは言えない。

まず遅い。

会話のスピードは以前の1/10程度。

意外と困るのが車の運転中。

運転している最中、私が何気なく「〇〇はどうする?」などと聞くと、母の答えはメモ用紙に記すことになる。

運転中にそれを見ることは出来ないので、信号で止まるまで待つ。

その間、会話は止まる。

車の運転はこちらも神経を使っているので、更に言葉で意思疎通が出来ないというのは、結構なストレスを感じるのである。

だが、そんな母とごく自然に「会話」をする者が、家族に一人だけいる。

5歳の息子だ。

理由は全く分からないのだが、何となく言っていることが分かるようで、筆談なしでもコミュニケーションが取れている。

そのスピードは、文字に頼る我々より早く、ある種の「超能力」とも言える。

これは一体何なんだろうか?

幼児の能力を研究した各種の文献に当たれば、その答えらしきものは載っている。

脳波の話。

人間の脳は、常に微弱な電気が流れていて、その電気の周波数によって、以下の4つに大別できる。

・デルタ波  1-3ヘルツ
・シータ波  4-7ヘルツ
・アルファ波 8-13ヘルツ
・ベータ波  14ヘルツ以上

脳が活発になればなるほど、この「ヘルツ」は上がる。

仕事中など、脳がフルに働いている時がベータ波(14ヘルツ以上)、リラックスをしている時がアルファ波(8-13ヘルツ)、寝る直前がシータ波(4-7ヘルツ)、そして熟睡している時がデルタ波(1-3ヘルツ)となる。

高ヘルツ = 高性能

というのは、パソコンのCPUも同じ原理で、脳もヘルツ数が上がれば処理能力が向上する。

ちなみに昨今のPCに搭載されているCPUは3.5GHz(35億ヘルツ)

一概に脳と比較できないまでも、何とも凄まじい数値だ。



但し、CPUと違い、人間の場合は必ずしも「高ければ良い」というものでもなく、ヘルツが低いほど脳への負担は減るので、仕事中でも深呼吸をしたり、音楽などを聞くことでベータ→アルファに周波数を落とし、脳をクールダウンさせた方が良いらしい。

で、子供だが、産まれたばかりの新生児は、ほとんど寝ているので、デルタ波(1-3ヘルツ)の世界を生きている。

そして成長するにつれ、シータ波(4-7ヘルツ)が優位となり、更に10歳ころからアルファ波(8-13ヘルツ)の量が増え、15歳前後でほぼ大人と同じ脳波構成になる。

なお、言葉に頼ったコミュニケーションはアルファ、ベータ波層(8以上)でのものと言われている。

相手が発した言葉の処理に膨大な「脳力」を労するからで、会話というのはそれだけ高エネルギーということなのだろう。

対して、シータ層のコミュニケーションは深層心理レベルの原始的なもので、例えば動物同士のコミュニケーションがこれにあたる。

動物には「言葉」はないが、それぞれが意思疎通をしているし、犬や猫も、飼い主の言葉を理解しているわけではなく(ある程度は分かっていても)、身振り手振り、そして身体から発するオーラでその感情・思考を解す。

5歳はまだシータ波が優位であり、これは「賢い犬」とほぼ同レベルだそうだ。

そのため相手が喋れなくとも「何か」を感じ、その意図をくみ取ることが出来るのかもしれない。

「喋れない人」とのコミュニケーション。

大人には不可能な難ミッションを子供が易々と行う場面に遭遇すると、人体の不思議を感じずにはいられない。

しかし、多くの子供が、算数や国語と言った高ヘルツの能力と引き換えに「超能力」を失い、普通の大人になっていく。

実際、もうすぐ9歳になる上の姉は、祖母とのコミュニケーションに苦労しているようで、筆談に頼る場面が多い。

 

「ババは何で喋れないんだろう。笑うことは出来るのに」

息子が母とその独特の「会話」をしていた時、ふとした瞬間にそう呟いた。

その言葉にハッとさせれた。

何かが心をうったのか、母は涙を流していた。

失ったものを嘆くより、今あるものに感謝する。

5歳の子供の素朴な疑問は、その本質を突いていた。

そう。話すことは出来なくとも、笑えるし、泣けるではないか。

そんな喜怒哀楽で彼は母と心を通じている。

言葉に頼りすぎている我々こそ、それを見習わなくてはいけない。



ちなみに、これを「ホームラン」だと感じた息子は、その後も同じセリフを連発。

折角の名台詞も、あまりのしつこさに最後には皆から「はいはい」と流されていた。

そう言えば犬も一度褒められた芸を何度もやる。

このあたりの浅はかさもシータの住人の共通項と言える。

本日のコラムでした。

 

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2月 14th, 2022 by