逆上がりを「習う」時代にもの申す!!習い事の「見切り時」


逆上がり

これは、ある人間にとっては人生で初めて訪れる「挫折」と言える。

他者がいとも簡単に出来ることが、自分には「出来ない」

それまで周囲と自分とでさほどの差を感じていなかった子供に対し、

「貴様は劣っているのだ!!」

という事実を突きつける。

それが逆上がりだ。

なお、ここで出遅れると、その後の登り棒、二重跳び、跳び箱(高段)なども絶望的で、周囲に大きく遅れを取る。そしてそれは幼少期の大きなコンプレックスとなる。

かく言う私も

「運動神経を母のお腹の中に置いてきた」

と評されるほどの運動音痴であり、子供のころから逆上がりが出来なかった。(大げさではなく、おそらく学年一運動が苦手だった)

と言うより、今でも出来ない。

人生の中で逆上がりを「やれたこと」がないのである。

もちろん、熱血を履き違えた教師(だいたい大学を出たばかりの若い男性教師)の執拗な指導のもと「ドーピング並の補助(先生がほとんど私を抱えて回す)」によって、形だけは出来たことはある。

その結果「なっ?コツさえつかめば出来るだろ?」などとドヤ顔されるが、こちらとしては友人たちの嘲笑の的となる方が苦痛であり、子供心に

「たかだ逆上がりで、何故にこんな辱めを受けねばならぬか?」

と憤ったものだ。



で、我が子の話である。

産まれる前から「運動神経だけは自分に似てほしくない」と強く思っていた。

ちなみにうちの妻は、小学校1~6年までリレー選手という運動神経抜群女子で、逆上がりなど「何周もしちゃう」系だ。

神様!!どうか妻の運動神経を!!

しかし、総じて似てほしくないところほど似るもの。

うちの子供たち(上も下も)は、残念ながら・・・というところである。

そして、上の姉が小学校に入り、逆上がりの試練が彼女を襲う。

無論出来ない。

公園の鉄棒で健気に練習はしているものの、どう見ても「出来る気配」がない。

妻が

クルっと回る!!勢いをつけて!!

などと教えてはいるものの、それも所詮「強者の論理」であり、私に恥を与えたあの体育教師と同じだ。

「出来るならやってるよ・・・」

そんな子どもの心の声が聞こえる。

そんな時、妻がある習い事のチラシを持ってきた。

体育教室

世にある「体操」教室ではなく、あくまで学校の体育で落ちこぼれた子供のための教室だと言う。

チラシには「絶対出来る!!逆上がり!!」、「怖くない後転!!」などの文句が踊る。

ほほー、今どきはこんなものがあるのか。

そこで、個別指導50分というのを頼んでみた。

注:余談ながら2004年の朝日新聞の調査では、小学6年生で逆上がりが出来ない割合は男子28.9%、女子29.9%。1984年の調査では男女ともに10%以下だったので、「逆上がりが出来ない子」は急激に増えている。

その結果だが・・・

率直に驚いた。

なんとたった40分の練習で「逆上がれる」ようになったのである!!

なお、その教え方だが、流石に上手い。

クルッと、勢い、などの曖昧な表現は使わず、手の角度、足の配置など客観的要因のみで、「逆上がり」を論理構成し、パーツごとに教える。

各パーツごとに練習をし、それぞれが出来るようになれば、完成形として「逆上がり」が出来るようになる、というストーリー。

むしろ学校の先生こそ「教え方」を教われば良い。

上の姉は1度の指導で解決してしまったので、それ以来行っていないが、「出来ない予備軍」である下の息子は通常教室(複数人で参加する方)に通い、目下「後転」と「逆立ち」に取り組んでいる。(逆上がりはまだ先のようだ。ちなみに父はもちろん後転も、逆立ちも出来ない。)

まあ、これさえやっておけば体育で大恥をかくこともない。

コンプレックス解決という意味で見れば体育教室は素晴らしいサービスと言える。



が、同時にこうも思う。

本当に必要か?と。

昔、ある女性経営者から聞いた話を思い出した。

「日本は欠点を許さない社会。どれも平均点以上を求め、突出したプラスもマイナスも認めない。」

この方は自閉症やダウン症などの知的障がいを持った方々の就業支援をしているのだが、企業の選考では「出来ること」を聞くのではなく、とにかく「出来ない」ことにフォーカスする傾向が強いそうだ。

しかし、特定の作業においては、健常者より障がい者の方が上であることも多い。

例えば、お菓子工場で「クッキーの上に少量のクリームを載せ、飾りのフルーツを置く」という作業がある。その数1000枚。

健常者は「残り何枚」と考えるが、障がい者は「1枚を1000回」と考える。

残り枚数や作業時間を気にしてムラが出る前者より、1枚ずつ丁寧に同じ作業を繰り返した後者の方が質が高い。それは本職のパティシエも認めている。

「何がプラスで、何がマイナスかなんて状況次第で変わるのに、とにかく子供の頃から『何でもそこそこ』という平均点教育が日本の社会の視野を狭めている。」

そうおっしゃっていた。

そう思えば、体育教室などはその最たるものだ。

運動音痴の子供を「そこそこ」にする。

それで親は満足するだろうが、それこそ現代の平均点思考と言える。

人間誰しも得手、不得手がある。

苦手なことは苦手でも良いではないか?

息子の体育教室に付き合い、親の目から見ても「イマイチの運動センス」を眺めていると、幼かった頃の自分がふと目の前に現れ、こう言うのだ。

「僕、逆上がり出来なかったけど、今まで頑張って生きてきたよ。この子だってきっと大丈夫だよ」

と。

そうだよな、うんうん、と涙ながらに頷く。

しかし次の瞬間、「お前、首大丈夫なのか?・・・」と思うくらい不格好な後転を決めた息子が「今の見てた?」とばかりに私の方を向き、二カッと満面の笑みを浮かべる。

出来なかったことが出来るようになる。

これもまた紛れもない人間の成長であり、そこには本人、周囲の喜びがある。

何がマイナスで、何がプラスなのか。

親が決めること自体、おこがましいことなのかもしれない。

習い事を「見切る」のは本当に難しい。

でも、本人が楽しんでやっているのだから、まあ良いか・・・

本日のコラムでした。

 

 

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10月 24th, 2021 by